Distortion Life

ゲーム開発者つよがエンタメを思考したら発信するブログ

生まれて初めて社員になった僕が職歴を振り返ってみる vol.004

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苦しい内容になってきたこのエントリも4回目です。間が開きすぎですな。負債が膨らみ、いよいよ行き詰まり感が増して来た会社はどうなってしまったのか。今回で本当に最後にしようと思います。始めにお断りしておきますが、なかなかに苦しい内容で、気分が滅入るかもしれません。ただ、書く事が僕自身の禊でもあるので、ご容赦くださいませ。

生まれて初めて社員になった僕が職歴を振り返ってみる vol.001 - Distortion Life

生まれて初めて社員になった僕が職歴を振り返ってみる vol.002 - Distortion Life

生まれて初めて社員になった僕が職歴を振り返ってみる vol.003 - Distortion Life

苦しいもの同士で寄り添った

営業を続けながら、仕事が無い中でも開発スタッフの給与は当然発生します。作家やフルコミッションではないのだから当たり前の事と知りながら、兎に角コレが辛いんですね。経営層は出来る事は全て実行して経費を削りますが、開発チームにその意味や意義を上手く伝えられないからです。

 先ずは生き延びなければ挽回の機会さえ失われる、と云う前向きな考えが土台にあったワケですが、表面的にはネガティヴな出来事の連発ですからね。

 この頃に初めて休業補償給付の制度を活用しました。ご存知でしょうかね、休業補償給付制度。

 ものすご〜く簡単に云うと、こうです。

 中小企業が業績悪化によって経営が一時的に苦しくなった際、雇用を維持しようとする企業側の意向をサポートする意味合いで、社員を休業扱いにして勤務日数を減少させる代わりに給与の何割かを立て替えてくれる、っつーヤツです。休業して出勤日数は減りますからトータルの支給額も当然その日数に応じて割り引く形になります。

 行政が給与支払いを幾許かでも補償してくれている間になんとか生き延びる術を見つけなさい、と云う事ですね。

 このうっすら首の皮が繋がった状態で何をやったか。

 経営層はもちろん営業活動は全力で継続しつつ、キャッシュアウトを少しでも抑えられる手段を全て実行して行くわけです。ただ結局開発チームが出来るのは休むか開発するかの2つしかないワケで、じゃあずーっと休むかと云うとそれでは雇用を維持した意味がありませんしそもそも給与が支払われませんから会社に出てこなきゃいけない。

 ここで判りやすい展開、自社製品を作ろうやないかとなるんですね。

 正直云って、こんな流れで作った自社製品や自社コンテンツが上手くいく確率は極めて低いです。売上計画に基づいた具体的な数値目標があるワケでも、長年温め続けてきたアイデアの発露があったワケでもないのですから。しかし、何かせずにはいられなかったんですね。まあ気持ちは判るでしょ?

 ただ、当時の我が社はプログラマを抱えていませんでした。えっ?プログラマ居ないのにゲーム開発の会社ってどう云う事?って思いましたか、ええあなたの発想は正しいです。我々の会社はプログラマが居ない、企画者とデザイナだけの会社だったんですね。プログラム作業は総て外注していました。会社としてやる事は、ゲームの企画、グラフィックの作成、プロジェクトマネジメント、に限られていたワケです。

 ですので、いくら次の仕事が決まるまでの間に自社ゲームを作ろうとしても誰が?ってなります。そこで社長は過去に仕事を一緒にした事がある盟友や、ご兄弟が経営されている開発会社に声をかけました。でまあ、協業と云う形で契約を結び、お互いに開発コストを持ち出ししながら作って、利益が出たら汗かいた量から比率を割り出し折半しようぜ、って事です。

闇に向かって全力疾走

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そうして、2社との協業でゲームコンテンツを作る事になります。実質半年くらいの期間でしたが、都合10タイトル位をリリースしました。2週間に1回くらいのペースです。総て広告収入ベースで、まあミニゲームのようなものでした。それなりに遊べるものではありましたが、2週間で作ったシロモノですからたかが知れています。

 時は既にブラウザ系カードゲームからネイティヴアプリゲームの時代に突入していましたから、今更ミニゲームをプレイする人なんて極僅かです。広告収入を期待するにはあまりに無策過ぎました。

 盟友だった方の会社とはそれっきり仕事をする事はありませんでしたが、ご兄弟が経営されていたシステム開発の会社さんとは、この協業がきっかけで、後々まで運命を共にする事になります。半年も営業を続けるうちに、遂に巻いた種が芽生え始めたんですね。

 やった!これで1年は食えるか!?

 僕はこの時そんな淡い期待を持っていました。実際そのタイミングから、続けて4案件程が成約し、期間としても4プロジェクト合わせると11ヵ月程掛かる見込みで、その後に運営と云うフェイズが待っていますから、少なくとも15ヵ月程度は収入が見込めたんですね。ここで結果を出す事が出来たとしたら最後のチャンスかもしれない……。

 開発に俄然力が入ります。

 がしかし、そうはなりませんでした。残念ながら膨らみ過ぎた負債によって、もう既に使える手段を使いつくした状態でしたので(後で知ったトコロによると社会保険の支払いもペンディングしまくり済でした)、クライアントから受け取った開発費をそのまま開発費として使う事が出来ない状態に突入していたんですね。

 僕自身は開発を統括する立場でしたからクライアントとの折衝も行うワケですが、この時に与えられている会社都合予算とクライアントの要望にギャップが生まれるのです。

 クライアントは、この額面でこんなコンテンツを作ってくれたまえと打診し、我が社の社長は「やりましょう」と即答して仕事を引っ張って来ます。

 そしてココが凄いと云うかなんと云うか「最初の入金タイミングが考えられない程早い契約」を締結してしまうんですね。普通に考えてあり得ないと思えるようなタイミングなのです。

 それでもなんでも、社長は兎に角現金を手に入れて負債に充てる事を最優先を考えていましたから、実際に開発が始まった後の事には、完全に興味を失っていました。で、統括と云う立場の僕が、どうにかして開発を進めなくてはならなくなるわけですが、本来開発に使えるハズの予算が殆ど無くなった中での遣り繰りですから、まともに稼働する筈はありません。

 毎月、15日くらいになると社長の苛立ちがピークを迎え、今月は後500足りない!などと当たり散らすようになります。

 組織の末期状態です。

 この頃の僕の生活は、少しでも開発が成立する為に馬鹿みたいに働いていました。朝10:00から26:00と云うサイクルが月曜日から土曜日まで続くのです。日曜日だけは、死んだように眠るんですね。

 そんな事をしていて、状態が好転するはずなどあり得ないのに、その時は必死ですからそんな事は思いもよりません。冷静な思考が出来なくなるのでただただ暗闇に向かって全力疾走するだけマンになっていました。そして、色々が壊れ始めます。

離婚からの独り暮らし

まず妻と僕の関係がじわじわと悪化しました。お互いが決定的に嫌いになるような事はなかったのですが、一緒に過ごす時間が極端に少ないと云う状況が長く続くと、人間は強く繋がり続ける事が出来ないんですね。

 とあるキッカケで離婚する事になりました。

 切り出したのは僕です。自分から云い出しておきながら精神的ダメージは相当なものでしたが、立ち止まっている暇もありませんので、すぐさま新たな住まいを探しました。離婚を決めた週末に不動産屋に飛び込み、その日の内に4件の内見を済ませ、その内の一軒に決めたんです。

 人生で最も苦しい1ヶ月を過ごした後、僕達はそれぞれの道を歩き始めます。もう感覚が死滅して泣きたいのに泣けない状態が長く続いていたのに、離婚を決めてからは幾らでも涙がでるようになりました。

 そして決定した通りに手続きは恙無く進行し、やってくる独り暮らしの生活。

 僕は既に30代後半のおっさんでしたが、独り暮らしは初めてだったんですね。これがまあ、大変です。洗濯さえまともに出来ない男が突然独り暮らしなんかしたらダメですよ。

 まーしばらくは無茶苦茶な生活でした。しかし先に書いたように家には殆ど居ないので、あまり困らなかったのです。冷蔵庫にはアルコールしかない期間がまーまー永く続きます。

 そしてしばらくして二度目の結婚をし、ありがたい事にすぐ子供も授かりました。会社はいつ無くなってもおかしくない状況でしたが、家族が出来た事で僕は随分と勇気付けられました。

 とは云え。

 家族に勇気を貰っても会社の負債は1円も減りませんので、毎日10:00に出社して帰宅は26:00です。コレは子供が産まれてからも続いていました。

 そして子供が産まれて半年が経った頃、遂に僕は動けなくなってしまいました。

鬱病は突然に?いやとっくにキッチリ病んでいたのだ

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最初は異常な嘔吐感に苛まれ、欠勤します。しかも起き上がる事さえ出来ない程の苛烈な倦怠感を味わいました。そら体も壊すわい、と云えるような働き方をしていましたからあっさり観念して休むんですね。で二日も経つとまーまー元気になって来ますから、またあの戦場に戻ろうとする。そう正に戦場に思えたのです、当時の疲弊した脳味噌には。

 しかし朝がやって来ると、またあの激しいな嘔吐感がやって来る。こんな事が繰り返し起こり、2週間に渡って欠勤します。流石に、なんじゃこりゃ?となりますが、内科にかかっても大した異常は見当たらない。風邪でさえない。

 そう云えば、と思い出したのですが、会社を作ってから、2年に一度程度の頻度で、コレに似た事があったな、と。それらの時は色々の精密検査をしても何も見つからなかったんです。しばらくするとなんだか元気になっちゃうものだから、仕事に復帰していたのでした。で、妻が遂に僕に云います。

 「もし何にもなかったら笑い話でもいいから、一度試しに心療内科に行ってみない?」

 今思えば、こんな云いにくい事を僕のためによく云ってくれたな、と胸が痛くなります。その時の僕の感情は全く覚えていないのですが、なんの抵抗感もなく、近所の心療内科を探しました。

 ま結局は妻が探してくれた心療内科のクリニックが、自宅から歩いて行ける距離にある事が判り、出向くわけです。

 あっさり、鬱病の診断。

 そこから投薬が始まりますが、仕事からは距離を置く事になり、そこから更に半年間、僕は欠勤し続けました。

 その間、社員の皆さんは全然機能していたようで、僕の不在は会社運営に追加の打撃を与えてはいなかったようです。みんな優秀だったからね。有難いことに、そんな苦境に於いてなお、社長は欠勤している僕に役員報酬を支払い続けてくれたのです。この事は感謝してもし切れません。

 しかし会社経営は改善される事なく、敢え無く倒産です。結果2億円の負債だったそうです。

 僕としては、ホッとしたやら悔しいやらで、何だかワケわかんない状態でした。しかし、後になって聞いたのですが、妻はこの倒産のおかげで旦那が死なずに済んだ、とひどく安心したのだそうです。心配かけ過ぎですね。

倒産してから新会社設立迄の流れ

さてこの倒産劇には僕は役員でありながら全く介入出来ませんでした。微かに残っていた自尊心がズタズタになるわけですが仕方ありません、自分の身体の責任は自分にしかないわけなので。

 社員達は社長の旗振りの元で、倒産に向けた準備や後処理を黙々とこなしていったそうです。しかし社長はただただ自己破産の手続きを淡々とこなすだけのタマではありませんでした。倒産すれば当然ながら社員達は職を失うわけです。その責任を感じない経営者などおりません。

 彼は破産申請をする以前から社員達の新たな就職口を模索していました。そして、繋がりがあった東京の企業2社に話を持ちかけ、開発チーム一式を使った新会社設立を計画していました。

 破産する社長は当然ながら代表になる事が出来ませんが、個人外注などの形で関わる事は可能です。経営者と云う肩書きではないにしても、新しい会社を機能させるべく従事することが出来ると云う点をプッシュして、まるまる開発チームが手に入ると云うメリットを売ったとも云えます。

 兎に角雇用をなんとか維持しようと必死だった事でしょう。

若手経営者の判断ミス

さて幾つかの買い手候補の企業と交渉は進みます。数千万円の付加価値を値付けし、その金額をキャッシュで用意できたなら会社の新会社の設立に協力する、と云う条件を付けます。僕は鬱でヘタっていましたから、その事は後から知ったのですが。

 そうして、東京のとある企業が社員を買い取る事を決意したのです。

 彼等は学生ベンチャーとして在学中に起業した、一回り程も歳下の会社でした。ゲームコンテンツの運営を受託する業務がメインでしたが、開発をやりたいとずっと考えていたそうです。しかし、自分達で必死に勉強したり、新卒の採用を試みるも、経験者がゼロなのでなかなか上手く行ってなかったようです。

 そこに、業界歴10年ちょっとの開発チームがマルッと手に入る機会がやって来た、但し数千万円の原資は必要ですが。そこでこの若き会社、若き経営者は勝負に出たんですね。最終的には、希望していた額面には少々届かなかったみたいですが、ほぼほぼ条件を満たすキャッシュを用意して来たのです。

 この若き経営者と我が社の社長の間でどのような約束が成されたのかは、社員も役員である僕も知らされていませんでした。

 しかし、会社の名前は変われどもう一度再起する最後のチャンスだと云う事は、社長自らの口で語られたのです。

 一瞬コトは上手く進みかけましたが、少々予定外の事も起こりました。

 それは、僕と企画担当者の最古参である社員Yの2人が、件の新会社にジョインしなかった事です。理由は至極シンプルなものでした。2人とも同じ事を感じたのです。

 つまり、元社長と新会社の若手社長とのヴィジョンが大きく乖離していたのです。こんなチグハグな首脳陣で会社が上手く機能するはずが無い。元社長と若手社長の云っている事も微妙に食い違っていた事に、我々2人だけは気付いてしまいました。こらあかんわ、と。10年以上共に戦って来た仲間から離脱する事はそれなりに苦しい選択ではありましたが、未来を感じない組織作りに加担する気も起こらなかったんですね。そこで自分に嘘をついても始まらんだろう、と思ったんです。しかし、我々2人を除く残り全員は、新会社設立により協力する決断を下したそうです。僕達からすると、正気か?と思ったものですが、彼等の人生の決断に口出しするのは憚られたので、静かに身を引きました。

 正直に云えば、新会社にジョインしなかった我々2人は主戦力の二本柱でした。若手社員達は成長していましたから充分に業務を遂行する事は出来ましたが「決定出来る人材」はまだ居なかったんですね。我々2人を欠いた状態でも、まだ尚会社を買う気を失わなかった若手社長は、明らかに選択ミスをしたと思います。

 エンジンが搭載されていない車を買ったようなものですから。

 結果としてこの会社は、一年経たずに倒産し、親会社であった学生ベンチャーの企業も経営権を譲渡する形で大手パブリッシャに買われました。経営判断を誤った代償は安くなかったわけです。残念ながら。

40代の再就職

さて、新会社設立の準備に沸く元同僚達を尻目に、僕はまず役員時代にお世話になった方々への、近況報告とコレまでのお付き合いに対するお礼をせっせと送りました。

 倒産のタイミングは色々の事情により、より慎重に公とする必要があったので、親しくしてくださった方々への連絡がかなりの期間社長から止められていたのです。

 僕としては一刻を早くこの苦境を関係者各位に打ち明けて、若い社員達の再就職先を打診するなどしたかったのですが、社長は社長で新会社に人材を残しておきたい意図があった為に、法的措置が発動するギリギリまで、一切の情報に緘口令が引かれていました。

 有り体に云えば、計画倒産です。

 負債は億を超えていましたから完済は絶望視され、裁判所任命の管財人が社長の財産を現金化し債権者に分配すると云う、所謂破産の手続きが粛々と遂行されました。

 僕も、企業共済の掛け金を会社に貸し付けていましたし、未払いの役員報酬がありましたので、奇妙な事に債権者サイドの人間として扱われました。数百万円程度ではありましたが。

 これは偏に、社長が僕を一切連帯保証人に設定していなかった事による結果です。役員を名乗っていながら会社の負債に対して責任を負う必要がなかったわけです。実際、経営判断は総て社長にお願いしており、僕は開発の統括をしていただけですから、実態としても間違ってはいなかったのですが、いざと云う事態になった際、僕に被害や責任が及ばないようにしてくれていた社長の気持ちには、有難いやら申し訳ないやらで胸が痛みました。

 管財人による財産整理は、弁護士事務所から経過報告が封書で送られて来ます。当然ながら、役員であった僕には分配されませんでしたが、当たり前だと感じていたので不満など毛頭ありませんでした。

 そうして、お世話になった各社の知人にご挨拶をしていたところ、有難い事に数名の方から再就職のお誘いを頂きました。苦しい時間が長かったせいか、涙が止まらなくなるほど有難く思いました。こんなヘロヘロになっている自分を拾って下さるなんて、言葉だけでも充分過ぎる。

 そしてその内の一社の役員さんから、今の組織を数年かけて改変したいと思っているんだけど手伝う気はあるか?と打診を受けます。

 そうして、会社が倒産した同月末、僕は生まれて初めて「会社員」と云う立場にクラスチェンジしました。

初めての正社員と云う立場

四十路を迎えて初めての正社員です。もう全然立場のイメージが掴めないワケです。社員はココまで会社のお財布事情に首を突っ込んで良いんだっけ?とか、他の社員さん達に対してどんな距離感で接するのが正解なんだっけ?とか、もう一々判らんのです。

 幸いにして、新会社設立から離脱したもう1人の最古参開発者も僕が引っ張る形で同じ会社に拾ってもらえたので、彼の動き方を参考にして立居振舞をチューニングして行きました。気分は新入社員です。マジで。

 社員となって数ヶ月が過ぎて頃にしみじみ感じたのは、社員と云う立場はなんて優遇されているのか、と云う感覚でした。

 勤務時間は法律が守ってくれるし、どんなにクダラナイ結果しか出せなかったとしても給与が直ちに下がる事はないし、何より殆どのケースに於いて判断しなくて良い。

 いや解っています、いくら法律が守ってくれるとは云え残業の曖昧さが存在していたり、途轍もないないミスを犯せば減給される事もあろうし、現場レベルの判断は日々実行している、のでしょう。確かにそうです。

 しかし、役員として13年間経験したどの場面よりも、遥かに甘く遥かにヌルく遥かに簡単でした。当たり前だと思われるでしょうか。本当に?日々難しい商談やコスト管理の遣り繰りだとか、人間関係によるストレスだとか、社員も楽じゃねーよ、って思いませんか。

 でも、本当に社員と云う立場は最高に楽チンです。会社員やってから独立、企業する人々の気が知れません。気狂いなのかな?と真剣に思う程です。

 兎に角、社員の自由さ、セーフティネットに守られている安心感、経営判断から遠距離である責任の薄さ、は衝撃的でした。こう書くと世界中の社員の方々に喧嘩を売っているような形になってしまうかもしれません。しかし、これは間違いないと思います。正社員の立場を軽々しく捨ててはいけません。

 会社員やってたら成長出来ない、やりたい事やる為には会社なんか辞めて田舎で自給自足しながらオンラインで仕事とったらいいんだヨ、みたいな主張もありますよね。

 まそれはそれで一理ある。否定はしません。しかし。会社員やりながら好きな事やる方法は本当に皆無なのか?と云う可能性には、一旦目を向けて見ても損はないんじゃない?とは思います。兎に角、優遇の塊ですから、慎重になってなり過ぎる事はないんじゃないかなーと思うんですよ。

 誤解無きよう書いておきますが、会社員になった僕はサボりまくってモチベーションをダダ下がりで毎日ぽやーんと過ごしているワケではありません。

 むしろ、この自由空間を活用して、自分がやりたい仕事を創出する為に思考を巡らせたり企画を立てたり人に逢いに行ったり逢いに来てもらったり、楽しくて楽しくて仕方ない日々を過ごしています。仕事に於いてココまで充実感を感じたのは、アルバイト時代に初めて作ったデータが、メディアに取り上げられているのを目の当たりにした時以来かもしれません。

 勿論企業に依るとは思いますが、会社と云うハコは、トップダウンで行うと面白くない単なる業務が、ボトムアップにした途端に突然エキサイティングな行為に様変わりする事があるんですね。初めて知りました。この事は、会社員の醍醐味じゃないでしょうかね。具体的に書きにくいのでモドカシイですが、同じ行為でも見る角度や側面が変わると、本当に気持ちの持ちようが真逆と云える程の違いになったりするものなんです。

 会社と云うハコを「制約」として捉えると、そうした違いになかなか気付けないかもしれません。

 僕は、今の会社に拾ってもらえて人生が再起動しました。鬱の投薬はなかなか減らないのですが、コレはもう、気長に付き合って行こうと思っています。焦っても多分無意味そうなので。

 何れにせよ、まだ会社員になって2年とチョットのペーペーです。まだまだ社会人として未熟な部分が満載の僕です。出来ればコレまで経験して来た苦しさも喜びも、会社に貢献する上でその材料として活用出来たらいいなあと感じています。

最後に

長々と書いて来た一連のエントリも、やっと終わりです。最初はサラリと職歴を振り返るつもりだったのに、4回にも渡って赤裸々な思い出を書き綴ってしまいました。ゆーても我々の世代は、まだまだ働かなくてはならないので、これからも働きマンの物語は続きます。人間生きてりゃなんとかなるもんです。楽しい事をヤって生きて行けるよう、日々を乗り切って行こうと思います。

 皆さんも適度に頑張って適度にサボってくださいね。一本調子ってのが一番良くないんですよ、ソースは僕ですけど。■■

 

会社を辞めずに朝晩30分からはじめる起業 (アスカビジネス)

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written by つよ